ウイメン・イン・ブラック

　同じ日の、夕方。
　秋月豪太郎はいつものように、有明のプライベートオフィスにいた。
　九月の、あの事件。
　豪太郎のグループ会社――アキヅキＵＳそのものは無事だったものの、請け負っていたネットワーク網は、あの建物ごとずたずたに破壊されてしまった。
　それから復旧作業の陣頭指揮を、文字通り不眠不休で続けてきて、やっと一息ついたと思ったら、今度はねじ子が。
　表向きは彼女の回復を見守るとは言ったものの、今回ばかりはさすがの豪太郎も内心、気が気ではない。
　今日こそ会いに行くつもりだったのだが、仕事は彼を放っておかない。
　海外からはるばる訪ねてきた客を持てなすうちに、もう日が沈もうとしている。
　やりきれなさそうにディスプレーを見つめ、書類の束をめくる彼の元に、秘書のイリアがコーヒーを持ってきた。
　いつもと同じモカ・マタリとマンダリンのブレンドだが、ぬるめに入れてある。
　いらだっている時はあっという間に飲み干してしまうのが、豪太郎の癖なのだ。
「ありがとう」
　目線は動かさずに、豪太郎が言った。
　そのまま右手でカップを探りあてると、やっぱり二口で飲み干してしまった。
　微苦笑するイリアに気づいて、豪太郎が顔を向けた。
「あ……ごめん」
　いいですよ、と言いながらイリアはカップを下げる。
「ふーっ」
　背伸びをして、豪太郎が息を吐いた。
　椅子から立ち上がると、窓際に歩み寄る。
　夕闇に消えていく街の風景と、眠そうなの豪太郎の顔が重なる。
　その後ろに、イリア。
　自分に言い聞かせるように、豪太郎がつぶやく。
「何やってるんだか……」
　どうしようもないことは、わかっている。
　それでも、気を緩めれば愚痴が止まらなくなりそうな。
「お気持ちはわかります」
　諭すように、イリアが言った。
「でも、今日は今日のお仕事を終わっていただかないと、私も帰れません」
　しばらく間を置いて、豪太郎が苦笑した。
「ああ、そうだったね」
　冷たい言葉にも聞こえるが、彼女特有の励まし方であり、豪太郎の様なタイプの人間には、慰めまじりの甘い言葉より効果がある。
　軽く体をほぐしてデスクに戻ると、先ほどまでとは比べ物にならない速さで書類を片づけていく。
　そんな豪太郎を見て。
　――色っぽいのになあ。
　イリアは静かにため息を付く。
　時として、上司以上の存在に感じてしまう。
　今日みたいに二人きりで残業の時は、こっそりと見つめてみたり。
　三つ年下とは思えない、頼もしい後ろ姿。
　いつもと違う、ちょっとゆるめ気味の胸元も、悪くない。
　初めて会ったのは三年ほど前。
　豪太郎が社長に就いて間もない頃だった。
　若すぎるリーダーに周囲は不信と懐疑の眼差しを向けたが、それを彼は実力で跳ね返してきた。
　その片腕としての自負、苦楽を共にしてきたという気概が、これまで彼女を支えていた。
　そこへ、ねじ子だ。
　見た目も才能も性格も、まるで自分とは違う。
　正直、どこがいいんだと思った。
　正直、社長はどうかしてしまったのかと思った。
　さすがに最近は、憤りもおさまってきたのだが。
「失礼ですけど社長、この後はねじ子さんのお宅へ？」
　最後の書類にサインをもらうと、イリアは尋ねた。
「うーん」
　ためらいがちに、豪太郎。
「正直悩んでいてさ。もう二週間も会ってないから、心配なんだけど、そっとしておいてとも言われてるし」
　やや間を置いて。
「難しいですね」
　年上としての威厳を交えて、イリアが言った。
「もう少し、お待ちになったらどうですか」
「やっぱり、そうかな」
　素直な口振りで、豪太郎が答える。
「もし会いたいのなら、自分でちゃんとおっしゃる方でしょうし。一人静かに、お気持ちの整理をされてるのかと思いますよ」
　――なんて歯の浮く言い方だろう？
　絵に描いたような「指南役」を演じている自分に、イリアはひとり苦笑した。
「そう、だね……。いや、アドバイスありがとう。我ながらこういうところは不器用で、困ったものだよ」
　確かにそうだと、イリアは思った。
　仕事の話なら躊躇せず決断できる豪太郎が、女性一人に会う会わないで、ここまで悩んでいる。
　――かわいい。
　とも、思ったり。
「あー、そうだ。コミケ。もうすぐだったよね」
　ジャケットに袖を通しながら、豪太郎が言った。
「今年の冬はねじ子さん、参加するのかなあ。去年みたいに準備で掛かりきりだったら、ますます会えなくなっちゃうなあ」
　――だとしたら、あまりに滑稽だわ。
　などと口には出さず、イリアはアドバイスを続ける。
「確か、ぷぢ子さんのスペースで売り子を……ご自分で本を出されるかどうかまでは、まだ」
　ありがとう、という豪太郎の声を受けてイリアはパウダールームに下がった。
　フロアは豪太郎のオフィスで貸し切りだから、女性用にはもう誰が来るでもない。
　それでも個室の鍵を閉めてから、イリアは電子手帳を取り出した。
　つい先日届いた、アンリ――クラインバルト公国第七王子――からのビデオメールが流れる。
　この夏に出会ってから、もう三ヶ月。
　アキヅキの援助を感謝する言葉に続いて、近況と、イリアへの思いが語られる。
　「冬コミでお会いするのを、楽しみにしています」
　もう何百回と聞いたその言葉が、イリアの心に染み渡る。
「誰かさんみたいに仕事ばっかりの大人になったら、許さないからね」
　そうつぶやきながら、彼女は少し目尻を潤ませた。