Start Up!

　翌日、日曜の有明。
　指定されたビルのロビーで、ねじ子はもう三〇分も待たされていた。
　周りの風景と同じく実に近代的で、そのくせちょっと寂しげな雰囲気の漂う建物。
　豪太郎の「隠れ家」を兼ねたプライベートオフィスが、この最上階にある。
　立派な本社ビルが新宿にちゃんとあるのだが、さすがの豪太郎も休みの日ぐらいは気分転換がしたい様だ。
　取引先とのランチミーティングが終わればねじ子と会う約束になっているのだが、話はけっこう弾んでいるらしい。
　待たされる者特有のいらだちに加えてこれから話さねばならない事を考えると、ねじ子の緊張感は収まらなかった。
　ふいに、エレベーターのドアが開いた。
　どこかの国の言葉――ねじ子には英語ではないことだけがかろうじてわかった――で、親しげに談笑する複数の男女。
　そのうちのひとりは豪太郎。
　傍らには金髪の女性――秘書のイリア。
　ロビーとは反対方向、駐車場の方へ向かっていく。
　ねじ子に気づく素振りも見せない。
　見送りなのだろうか。
　このまま、どこかへ行ってしまうのではないだろうか。
　ねじ子の心がいっぱいに張りつめたまま、また十数分が過ぎた。
「ねじ子さんですね？」
　振り向くと、声の主は
「秋月の秘書でイリアと申します。社長はまもなく戻って参りますが、先にオフィスに行っていていただきたいとのことです。私が案内いたします」
　なめらかで正確なアクセントの日本語だったが、それがかえって慇懃な調子にも聞こえた。
　小声で挨拶をして、ねじ子はイリアの後に付いていった。
　固い固い空気を乗せて、エレベーターが静かに昇っていく。
　窓の外に臨海副都心の風景が広がるが、ねじ子は目に入れる余裕もない。
　普段でさえそうなのに、こんな状況で気の利いた話が切り出せるようなねじ子ではない。
　唇が乾き、喉がむずむずする。
　何か言おうと必死で考えてみるものの、目の前にある伸びた背筋としなやかなシルクのブラウスが、ねじ子の決意をあざ笑っているかの様だ。
「こちらでございます」
　長い廊下だ。
　タイル張りではなく、毛足の長い絨毯敷きなのが、ねじ子にはまた堪えた。
　こんなところは履き古したスニーカーより、イリアの磨き上げたハイヒールの方が似合いそうだ。
　見えない目線と聞こえない陰口とを必死でやりすごしているうちに、来客室に通された。
「それではお待ち下さい」
　イリアの姿が見えなくなると、ねじ子は思わずソファに倒れた。
　深くため息をつく。
　――もう、答えなんか出てるじゃない。
　どう考えてもこの部屋の主と自分とは釣り合わない。
　豪太郎とつきあい続けると言うことは、いずれこの部屋にもふさわしい人間にならなければいけないということだ。
　そんな自信は、ねじ子のどこにもない。
　――確かに豪太郎さんはいい人だったけど。
　どこをどうやっても隣の場所にはたどり着けないことは、自分がよく知っている。
　自分を否定する言葉を山のように浴びせ、挨拶もせずに部屋を出ようとした時、
「お待たせ。話好きの人たちで、参っちゃったよ」
　優しい声と笑顔で、豪太郎が部屋に入ってきた。
「ごめんなさい」
　足早に立ち去ろうとするねじ子を、驚いた様子で豪太郎が制した。
「どうしたんだい」
「だって、私……」
　あとは言葉にならなかった。
　耳まで真っ赤にして、ねじ子は涙を流し続けた。
　テーブルを挟んだ向かい側のソファで、じっと彼女を見守っていた豪太郎だったが、
「とりあえず、泣きやんでくれないかなあ」
　部屋の隅にあるサーバーから、コーヒーを注いでねじ子に渡した。
「ほら……あんまり、慣れてないんだ。女の人と一対一で話すのは。その上泣かれたら、何をしていいかわからないよ」
「うそ」
　両手でカップを受け取りながら、ねじ子が涙声でつぶやいた。
「本当さ」
「だって、豪太郎さんほどの人だったらいろんな人と知り合うだろうし」
「仕事ではね」
「プライベートだって」
「そりゃあアプローチがないわけじゃないけど、こんな休みも満足に取れない男なんて、昔はともかく今の時代は不人気なのさ」
「さっきの人――イリアさんだって」
「おいおいそこまで勘ぐるのかい。彼女は優秀だし美人だけど、あくまで秘書さ。いっしょにいる時間は長いけど、私情を挟む余裕もないよ」
「そうですか……」
「なんだか君とつきあっちゃいけないみたいだなあ」
「豪太郎さん！」
「はい？」
　怪訝そうな豪太郎を前に、ねじ子が息を大きく吸った。
「あたし、同人誌が趣味なんです」
「同人誌……？」
「漫画を描くのが好きなんです」
「いいじゃないか。誰だって趣味くらい」
「違うんです。すごく入れ込んでるんです。この前の日曜だって、ほんとうは同人誌を売り買いするイベントに行ってたんです。豪太郎さんに嘘をついてでも、漫画の方取っちゃうんです。だから駄目なんです、おつきあいでき」
「知ってたよ、パシフィコの件は。悪いとは思ったけどイリア君に尾行してもらった」
「イリアさん？」
「わからなかったかしら？」
　先ほどのスーツ姿とは一転して、なまめかしい革のレオタードを身にまとったイリアが現れた。
「我ながらよく似合うわ、このコスチューム。カメラ小僧って言うの？パシフィコでもたくさん写真撮ってもらったし」
「うわ。あの時の行列、イリアさんだったんですか」
「そうよ。で、隣であたしをうらやましそうに見てたデブ三人組が」
「あたしのサークルの」
「まだ言ってないのに。まあ、そういうこと。全部お見通しだったわけなの。ごめんなさい、ねじ子さん」
「ひどい……」
　また涙ぐみそうになったねじ子を見て、豪太郎がフォローを入れる。
「僕と最初に会った時、何をしてたか覚えてるかい？」
「会議中、ノートに落書きを」
「大事な会議だったのに、なぜだかあれがどうしても気になった」
「そりゃ、大事な会議の最中だから浮いてましたし」
「違う。思い出したんだ」
「思い出した？」
「小さい頃のことを。同じクラスにいたんだ、あんな女の子が。落書きが好きで、休み時間はずっとノートに向かってた。ちょっとからかったら、泣き出して。でも謝ったら機嫌を直して。似顔絵描いてくれて。それから仲良くなって。だけど忘れてしまっていた、いつの間にか」
「いつの間にか」
「そう。おかげで、こうやって大企業の社長さんをやらせてもらってる」
「……」
「でもそろそろ、このままじゃ限界だと感じていた。揺らぎもなにもない生活だからね」
「最初の頃は」
　イリアが言葉を挟んだ。
「ねじ子さんに嫉妬していたの、私。社長がすごくうれしそうにデートに出掛けてるから」
「そうだったかなあ」
「そうです。悪いけどなんであんなのに、って思ってました」
「否定できないのがくやしい……」
「ま、その辺は女の性ってことで許してね。だって社長、デートの後はやけにすっきりした顔で帰ってくるんですもの」
「って、まだ私、何もしてませんよ！」
「そういう意味じゃなくてね、心底やすらいでる感じなの。あんなにゆったりした顔、私がここに来てから見たことありませんでした。ほんとう、すごい才能の持ち主よ、ねじ子さんは」
「そうなんですか、豪太郎さん」
「そうさ。最初会ったときから思ってた。いっしょにいると、心から落ち着ける人だなあって。単にスローなのとは違う。実にゆったりとしたテンポの生き方が、僕は気に入ったのさ。だからあんな事言わないで、これからもつきあってくれないかい。まだ忙しいけど、できるだけ週末は時間を割くようにするよ」
「でも、私やっぱり同人も……」
　わずかに、ねじ子が躊躇した。
　そのわだかまりをゆっくりと解きほぐすように、豪太郎が言った。
「僕も行くさ、君と一緒にイベントへ。最初は荷物運びやお店番くらいだけど、いつかはいっしょにコスプレしたり、本を作ったり」
「本当ですか？」
「ああ。いろいろと、教えてくれるかい？」
　ねじ子はふいに、去年の冬コミを思い出していた。
　ぎりぎりまでコピー誌作りに追われ、徹夜明けで迎えた開場のアナウンス。
　それと同時に広がっていく、なんとも言えない充足感。
　誰が誉めてくれるわけでもないけど、自分がとっても素敵に思える瞬間。
　その時と同じくらい、すごい早さで血が体中を駆けめぐっていく。
　あやうく鼻血が出そうになるところを踏み止まりながら、ねじ子はにっこりと答えた。
「じ、じゃあ行きましょう。今からビッグサイトに。今日のイベントなら、閉会までまだあと二時間もあります！」

　目と鼻の先、たった数百メートル先のビッグサイトに出掛けるために、豪太郎は車を出してきた。
　――さすがお金持ちだなあ。
　テスタロッサとはまたひと味違う、ベンツＳ６００Ｌのナビシートに座りながら、ねじ子はひとり思った。
「ふふ。こんな位置に座っていると、なんだかお姑さんみたいだわね」
　後部座席にはイリア。
　先ほどのレオタードに、毛皮一枚まとっただけの姿だ。
「ねじ子さん、本当にいいのかい？イリアも連れていって」
　商談も終わったことでラフな――それでもジャケットだけでねじ子の月収くらいはある――格好になった豪太郎が、ねじ子に気を使う。
「ていうか、お願いしたいくらいです。なんだかさっきから、こう、興奮しちゃって。自分でも何するかわからないし。豪太郎さんに失礼ない様、お目付役で」
　ともすれば歯がぶつかるほど震えそうになりながら、ねじ子は言った。
　なんだかビッグサイトも虹色に輝いて見える。
「いつもは『ゆりかもめ』で来るのかい？」
「いえ、そんなノロマな物には乗りません。第一遠回りです。浜松町からバスで来るのがベストです」
「へえ」
「でも帰りは一駅歩いて『ゆりかもめ』に乗るのがいいんです。始発で座れますから」
　高まっていくテンションのなすまま、紅潮した新兵が戦況報告するかの様に、豪太郎の問いかけにねじ子が答える。
「まるで戦争ね。でなきゃ、国家プロジェクトだわ」
　期せずして、イリアがつぶやいた。
「それだけ楽しいってことさ。さ、着いたよ」
　ねじ子のガイドで、三人は駐車場から東館へ向かっていく。
　見慣れた銀色の建物が、次第に大きくなってくる。
　生きてきて今までで一番、最高に楽しい日曜日。
　もうひとりぼっちなんかじゃない。
「ね、豪太郎さん」
　男に甘える声なんて、何年ぶりに出したんだろう？
　自分でも驚きながら、ねじ子は豪太郎を誘う。
「今度いっしょに、マンガ喫茶に行きませんか？近所にチェーン店が来たんですよ。ほら、新聞で話題になってる、ネットやゲームもできるところ」
「ああ、それね」
　豪太郎は柔らかな笑顔で答えた。
「うちの傘下なんだ。君専用のフリーパスを作っておいたから、いつでも好きな時に利用してくれよ。もちろん、僕も一緒にね……おっと」
　豪太郎の言葉を聞き終わるやいなや。
　歓喜とも驚喜とも取れる叫び声を上げながら、彼に抱きつくねじ子。
「あらあら」
　半分あきれながら、それでも笑顔で見つめるイリアを後目に、ふたりの日曜日はまだまだ終わりそうになかった。

―完―