Start Up!

　小さくなっていくテスタロッサを見送りながら、ねじ子は伸びをした。
「ふあぁ……。疲れた疲れた。やっぱりまだ緊張しちゃうよなあ」
　いつの間にか輝きだした一番星を眺めながら、ねじ子はアパートの階段を上る。
　ぱいん、ぱいん、ぱいん。
　薄っぺらい足音が響く。
　ドアを開けて明かりを点ければ、そこはいつもと変わらないワンルーム。
　床に散らばる雑誌を飛び越え、ねじ子は急いでテレビのスイッチを入れた。
　見たい番組があるわけじゃないが、静かすぎる自宅もまた考え物だ。
　こんな時は特に。
　だから、テレビ。
　チャンネルはどこでもいいから、できるだけ騒がしいバラエティを選ぶ。
　誰かがずっと、喋り続けてくれればそれでいい。
　画面の中の笑い声で部屋が満たされるのを感じると、ねじ子は着替えを始めた。
　今日会った友人たちほど見るに耐えないラインではないが、格別男を引き寄せるようなスタイルでもない。
　そんな体を包むのは、実に素っ気のない白のインナー。
　この前ショップに行ったら、中学生がもっと色気のあるやつを買っていた。
　――くそっ。あたしの中学でそんなの着てたら、売春してるって噂が立ったぞ。
　頭がぐわーんと揺れてきて、張り裂けそうになった
　下着姿のまま、ベッドに寝転がる。
　疲れのたまった両足を、ばたばたさせる。
「ぐわあああーっ」
　のどの奥から叫んでみる。
　こんな時は、なるべくリラックス。
　なるべく、何も考えないように。
　そうしなければ、壊れてしまう。
　それでも考えてしまう――自分のこと、趣味のこと、明日の会社のこと、豪太郎さんのこと……。
　――いい人なんだけどなあ。
　構えすぎている自分がいやになってくるほど、豪太郎はいい人だ。
　今まで出会った誰よりも穏やかで、落ち着いて、素敵な男性だ。
　だけど、いや、それだからこそ。
　同人をカミングアウトできない辛さも、ひとしおだ。
　たとえＯＫをもらったとしても、豪太郎さんと足繁く即売会に通ったり、本を作ったりする姿は想像できない。
　それは、贅沢な悩みだとわかっているが。
　ねじ子はベッドから立ち上がると、雑念を振り払うように、熱いシャワーを浴び始めた。
　髪を洗っているうちになんだか涙が出てきて、それは止めどなくあふれた。
　ひとりぼっちの日曜日はまだまだ、終わりそうになかった。

「結局それはよぉ」
　土曜日の午後。
　ダイナマイト電器・秋葉原店のＤＶＤコーナー。
　ねじ子の愚痴を一通り聞いてあげたのは、数少ない友人であり、この店の店員でもある女性・ぷぢ子。
　おとなしい外見からは想像もつかないサラッとした男気が、彼女のいいところだ。
　トレードマークの三つ編みを振り回さん勢いで、ねじ子を諭し始める。
「あんた自分でも言ってるけどさ、贅沢な悩みってやつだよ」
「そうかなあ、やっぱり」
　溜息交じりに、ねじ子が答える。
　ぷぢ子はねじ子とほぼ同い年だが、始めたのは学生時代からなので、同人関係のキャリアはかなり長い。
　半年前。
　同人仲間とのありがちなゴタゴタで傷ついたねじ子は、予定していた即売会にひとりで出店する羽目になった。
　客も素通りする雰囲気の中、ねじ子がへこんでいた時だった。
「新刊、あるかい？」
　低く張りのある声。
　ねじ子が顔を上げると、そこにはひとりの女性がいた。
　ざっくりとしたイエローのフリースに、黒のスリムジーンズ。
　背中まである髪が、しなやかに風にそよいでいる。
　背もそれほど高くなく、派手な化粧もなかったが、内面の芯の強さがにじみ出て輝いている、そんな感じのする女性だった。
「あんたの本、いつも楽しみにしているんだ。フリートークもおもしろくってさあ。今日は余計なのがいないから、ゆっくり話ができそうだな」
　それが、ぷぢ子だった。
　その時と変わらない、ゆったりとした笑顔がねじ子の目の前にある。
「相手幾ら持ってると思ってるんだよー！上手いこと丸め込んでウハウハ同人生活目指すに決まってんじゃんか！」
「でも、同人が趣味って嫌われないかなあ」
「嫌われたら嫌われたで、その時だよ。顔がイヤだとか性格が合わないとか、そんなのよりよっぽど諦めもつくし」
「んー。不安だなー。」
「だから結局、二兎を追ってるんだよ。趣味は続けたい、豪太郎さんにはいい顔をしたい。虫が良すぎるんだよ」
「そうよね。だいたい私なんかとつき合ってくれること自体、信じられない話だってのに」
「それだよ。本当に会議で知り合っただけで、なんにもされてない？」
「うん。時々ご飯食べたり映画見たりで、それだけ」
「喜んでいいやら悪いやら……そうやって手なずけておいて、ふいに本性を」
「わからない。豪太郎さん、あまりに満ち足りていて、猛烈に何かをしたいっていうギラギラした感じがぜんぜんないの。どんなことにでも」
「まあ世界一のお金持ちだからねえ。気まぐれなボランティアじゃないといいけど」
　ふっ、とねじ子が黙った。
　喋りすぎたかな、とぷぢ子が反省しかけたが、ねじ子はまた言葉を紡ぎ始めた。
「ぷぢ子の言うとおりかもしれない。遠慮ばっかりしてるから、こっちも辛くなっちゃうのよね……決めた、明日のデートで同人のこと言ってみよう」
「それで、いい顔をされなかったら」
「もったいない話だけど、あきらめるわ。このまま中途半端な気持ちで日曜日を繰り返すのも、自分に悪いし」
「一ヶ月か――つきあい始めて。まだ夢だったかもって、思える様な長さだしね」
「そうだね」
　日は西に傾き始めたが、窓の外の人並みはまだまだ増え続けていた。