走れ豪太郎

　朝から蒸し暑い天気が続く、水曜日の午後。
　賢吾はチームの練習場――と言っても、スタジアムの隣にある市民公園のグラウンドなのだが――のベンチに座りながら、選手達の動きを見つめていた。。
　もうすぐ終了時刻なのだが、グラウンドには八人しか来ていなかった。
　――十人そろわなかったら、最後のミニゲームは抜きだな。
　プロでも暑い日の練習は、気が緩みがちになる。
　ましてや、アマチュアだ。
　仕事の疲れが抜けない者や、モチベーションが低い者は、練習に参加することすら難しいだろう。
　それを叱咤して、ここに呼び寄せる余裕は、今の賢吾にはなかった。
　足下には、古ぼけた練習ボールやマーカーコーン（目印用のプラスティック用具）が並んでいる。
　借り物のグラウンドでは、石灰でラインを引くことすらままならない。
　Ｊリーガーだったころは、練習のキツさやチームの方針に異を唱えることもあった賢吾だが、あれはあれで恵まれていたのだと、今更ながら思った。
　――なんだ？
　轟音に顔を上げると、グラウンドの真上をヘリコプターが横切っていった。
　公園の近くには、災害時に備えて市営のヘリポートがある。
　おおかた、農薬散布かテレビの取材だろう。
　――ただでさえ、暑いのに。
　珍しく、賢吾はいらだっていた。

　祐司のコンビニの前で、ねじ子はいらいらしながら携帯を見つめていた。
　今朝届いた豪太郎からのメール――自家用ジェットの機中で書かれた物だ――によれば、もうすぐこの店に来るらしいのだが。
　――本当に、来るのかなあ。
　いくら妻のわがままとは言え、仕事を放り出して帰国の途に着くとは、にわかに信じがたいねじ子だった。
　――だいたい、成田からここまでだって、半日は掛かるのに。
　そんな懸念を吹き払うかのように、携帯の着メロが鳴った。
　豪太郎からの電話だ。
「も、もしもし？今どこなの？」
「ヘリポートから、タクシーに乗ったところだよ。もうすぐそっちに着く」
「ヘリポートって、あの、市民公園の隣にある？」
「そうさ」
「まさか、成田からヘリで来ちゃったの？」
「ああ。調べたら、降りられそうなところが近くにあったんでね」
　確かにメールの通りの時間だったが、こういう度はずれた行動が、たまに理解できないねじ子だった。
　電話が切れてすぐ、黒塗りのハイヤーが店の前に止まった。
　中からはいつも通りスーツ姿の豪太郎と、やや疲れた様子のイリアが出てきた。
「ただいま」
　実家の近くで、海外出張から帰った夫を出迎える。
　なんとも不思議な再会であるが、これからの事を考えると、ねじ子にはしゃぐ余裕はなかった。
「ぐ、Gutentag！暑い中、ようこそお越しくださいました。さ、どうぞ中の方へ。お席はご用意してございます」
　いつの間に用意したのか、「秋月様ご一行」と書かれた旗を持って、祐司が現れた。
「席ったって、イートインのコーナーじゃない」
　遠慮なくねじ子が突っ込むと、
「文句あるか？あんたのとこのチェーン店なんだぞ。こちとら毎月、安くもないフランチャイズ料、払っているのに」
そこまで言って、祐司は言葉を詰まらせた。
「あー、社長、殿……今の、発言はですね、その」
　しどろもどろになる祐司に
「いや、さっきのは妻が悪いんです。ご好意はちゃんと受け取らないとね」
豪太郎は笑って答えた。
　そんな一行の前に、一台のワンボックスがやって来た。
「彼が賢吾君かい？」
「ええ」
「じゃ、始めようか」
　ゆっくりと、豪太郎は駐車場に向かっていった。

　程良く冷えたコンビニの一角で、会議は始まった。
「初めまして。ＦＣ葵の監督をやっております、望月と申します。よろしくお願いいたします」
　賢吾はそう言って、名刺を差し出した。
　監督になってからこれまで、何度頭を下げてきたことだろう。
　初めはぎこちなかった営業トークも、数をこなすうちに苦にならなくなった。
　願わくば、成果が伴ってくれれば一番よかったのだが。
　そんな思いを知って知らずか、目の前の男は元気良く話を切りだした。
「ざっとですが、そちらのホームページから会計資料を拝見させていただきました。確かに、これではチームの維持はたいへんでしょうね」
「ええ……」
　――見りゃあわかるよな。
　自嘲気味に、胸の内でつぶやいた。
　監督になってからこれまで、こんな会話を何度繰り返したことだろう。
　現状を正直に説明すれば同情に遠慮が上乗せされ、将来性を強調すれば疑惑と嘲笑が倍になって返ってきた。
　――だからって、どうしろと言うんだよ。
　そんな憤りは、誰にぶつけるわけにも行かなかった。
　病に倒れた恩師の願いを、誰が断れよう。
　自分を大人にしてくれた人たちの思いを、誰が断ち切れよう。
　だがその結果が、二進（にっち）も三進（さっち）も行かなくなった、アマチュアチームの責任者だ。
「私としても、妻の知人が監督をなさっているということで、ぜひチームのサポートをと思ってるんですよ」
「……はあ」
「それでですね、具体的には欧州のクラブチームをモデルにしまして」
　なぜ声で判子は押せないのだろう。
　聞こえのいい口約束に限って、土壇場で裏切られる。
　目の前で朗々と喋り続ける男が、目障りでたまらなく思えた。
　――もう、たくさんだ。
　賢吾は立ち上がった。
「すみません、そちらからのお申し出はありがたいのですが」
　会話は一方的に途切れ、微妙な静けさが場を満たしていった。
「自力で、何とかされるおつもりですか」
　怪訝そうな豪太郎に
「ええ。今シーズンもあと２ヶ月ちょっとですし、これを乗り切れば、次の開幕までに、別の仕事で資金を得て、それを回すことも……ですから、せっかくですがスポンサーのお話は」
賢吾がそこまで言うと、豪太郎は高らかに笑い始めた。
「わははははは！いや、失礼……困ったな、全然、話がかみ合ってなかったなんて、こっちも、思いこみが……はは、はははは」
　――何だ、こいつ。
　いよいよ賢吾が席を立とうとすると、豪太郎はようやく笑いを止めた。
　正確には、ねじ子が口を押さえた。
「どういうつもり？いくら豪さんでも、私の同級生を笑うのはやめてよ」
「……いやごめんごめん、僕も悪かったよ、ちゃんと最初から説明してなかったから」
　そう言うと豪太郎は、右指を鳴らした。
「イリア君、例の物を」
　疲れていると言うよりは、呆れて果てて仏頂面になったイリアが、無言でボストンバッグを開いた。
「え？」
　ねじ子が我が目を疑ったのも、無理はない。
　中から出てきたのはぼろぼろに使い込んだ、サッカーボールとサッカーシューズだった。
「用具のご提供なんですか？」
　賢吾の質問に、豪太郎は指を振って答えた。
「僕が、君のチームに入るんだよ」

　日はだいぶ、西に傾き掛けてきた。
　舞台をコンビニ隣の空き地に移して、豪太郎の「売り込み」が始まった。
　シューズはもちろん、ウエアも着替えてやる気は満々である。
　その一方。
「確かに選手登録の期限はまだですし、秋月さんはサッカー協会にも登録をされていますから、ルール上は問題ありません。先ほどの話だと、学生時代にも相当鍛えられていたそうですが――」
　困惑した顔で、賢吾は急遽舞い込んだ奇妙なオファーを断る理由を捜していた。
「本業だって、お忙しいでしょう。我々の練習は平日の昼から夕方が主で、試合は土日のどちらかにあります。東京から来られるんじゃあ、移動だけで時間を食いますでしょうし」
　だが「自称助っ人」の瞳から輝きは消えなかった。
「ヘリを使います。幸い、この付近に着陸場はあるし、ヘリは自前ですから、練習の後に会社に戻ることだって可能です」
「……本気で、おっしゃってるんですか」
「ええ、本気です！」
　――やっぱり、俺はからかわれているんじゃないのか。
　ねじ子に目で助けを求めたが、同じ様な目つきを返されて、賢吾は黙るしかなかった。
「まあ、仮に、時間はクリアになったとしましょう。ただ、アマチュアリーグとは言え普段からトレーニングを積んでないと、やはり急に参加というわけには……」
　そこまで言うと、豪太郎が右手を挙げた。
「じゃあ、テストをしましょう。それで決めて下さって結構です」
　――そういうのは普通、雇う側が言い出すんじゃないのか？
　相手のペースに飲まれ掛かっている事に気づいたものの、豪太郎の押し出す流れは、賢吾には止められなかった。
「このボール、そっちにいったん渡しますから、キープしてください。僕が取れたら入団、取れなかったら諦めて帰る。そういうことで」
　さっき見せたボールを豪太郎は軽やかに二、三度蹴り上げると、賢吾の足下に向かってパスを通した。
　――はったり咬ましやがって。
　大方、どこかで古くなったボールとシューズでも、拾ってきたのだろう。
　賢吾はジャージの上を脱ぐと豪太郎から五メートルほど離れ、右足をボールの上に置いた。
「さ、いつでもいいですよ。秋月さん」
　賢吾がそう言うやいなや、豪太郎は風のように走り始めた。
　――確かに速いが、動きは直線的だな。
　そう見切った賢吾が、ボールを守ろうと体をひねった瞬間だった。
　――？
　足下から、ボールが消え去っていた。
　焦って周りを見回すと、賢吾の隣に豪太郎がいた。
「はっはっはっはっは！」
　笑いながら、頭でボールを突き続けている。
　――そんな馬鹿な。
　賢吾の視界から豪太郎が消えたのは、一瞬の出来事だった。
「も、もう一度」
　思わず、口から出た言葉に
「そう来なくっちゃ」
豪太郎は深くうなずいた。
　――油断したとは言え、素人相手に……。
　ふたたび距離を取る。
　今度も、豪太郎は軽やかに走り始めた。
　――二度目はないぜ！
　相手の逆を付くように、今度は賢吾がボールをドリブルで運び始めた。
　――追い抜いてやる！
　豪太郎の目前まで来ると、猛烈なスピードで両足をボールの前で交差させる。
　フェイントで相手の目をくらませ、その隙に抜き去ろうと言うのだ。
　さすがに賢吾も、元プロ選手である。
　豪太郎の体が左右に振れ、動きに迷いが生じた。
　――今だ！
　賢吾はいったん右に蹴り出すと見せかけ、相手の体が大きく動いたところで、とっさに逆方向の左へと抜け出した。
　――どうだ！
　そう思った瞬間だった。
　重心を崩されて豪太郎の体が沈み込む中、思い切り伸ばした右足の先が、ボールに触れた。
　――！
　ボールは転々と、空き地の隅に転がっていく。
　賢吾が体を反転させるのと、豪太郎が勢い良く立ち上がったのは、ほぼ同時だった。
「うおおぉっー！」
　言葉にならない叫びを上げながら、二人の大人がぼろぼろのサッカーボールを目掛けて突進していく。
　今度こそ決着が――そんな周囲の思いをよそに、またしてもボールタッチは同時だった。
　二人の渾身のキックを受け、ボールは空き地を越え、さらに川沿いの農道へと飛んでいった。
「うおおぉっー！」
　一瞬、先に駆けだした豪太郎を追いかけ、賢吾も猛然と走り始めた。
　もうどちらのボールなのか、はっきりしなくなってきた。
　狭い農道で取った取られたを繰り返すうちに、次第に二人の姿はねじ子達から遠ざかっていった。
「あのー、ねじ子さぁ」
「なに？」
「俺、審判やっておけばよかったかな」
　祐司の冗談とも本気ともつかないつぶやきに、
「誰がやっても止められないわよ。好きにさせておきましょ」
イリアが吐き捨てるように答えた。
　そのまま一時間、二人は帰ってこなかった。