走れ豪太郎

　翌々日。
　ねじ子は、自分の母校でもある近所の小学校へと向かった。
　朝日の照りつける夏休みのグラウンドには、二〇人ほどの小学生がいた。
　小さいながらも、結構さまになったプレーを見せる者もいる。
　その真ん中に、Ｔシャツ姿の賢吾がいた。
　試合の時とは打って変わった、穏やかな笑顔で子供達にコーチをしている。
　声高に叱るでもなく、手取り足取り、型にはめるやり方でもなく。
　子供達の楽しそうな顔を見たくて、教えている――そんな雰囲気が伝わってきた。
　せっかくだから近くまで見に行こうと思ったが、
　――邪魔しちゃ、悪いしなあ。
　それに見ず知らずの母親達に混ざるのも気が引けて、校舎の陰から見守ることにした。
　小一時間ほど過ぎ、真夏の暑さにねじ子が少しめまいを覚えた辺りで、サッカー教室は終了になった。
　子供達は賢吾に深く頭を下げると、母親達といっしょに家路へと向かっていった。
　帰り道では、きっと楽しい会話があることだろう。
　グラウンドには、賢吾一人になった。
　ねじ子が声を掛けようとすると、賢吾は練習で使ったボールを一カ所にまとめ、遠目に離れたゴールに向かって黙々と蹴り始めた。
　一直線に飛んでいくものもあれば、大きく弧を描いて行くものもあり、そのどれもがネットに鋭く突き刺さっていった。
　――変わってないなあ。
　高校の頃も練習が終わったあと、賢吾は一人で黙々とシュート練習をしていた。
「望月くーん！」
　自分でも驚くほど大きな声で、ねじ子は賢吾を呼んだ。
「……ねじ子かー？」
　この前の試合と同じ――もっと振り返れば、高校の頃から変わらない――いったん素に戻ってから、すぐ照れ隠しに笑ってみせる仕草で、賢吾は答えた。
「おっと！」
　自分の正面に飛んできたボールを、ねじ子はなんとかキャッチした。
「お、ナイスキャッチ！今度も頭にぶつけて倒れるかと思ったぜ」
　――覚えてて、くれたんだ。

　高校時代からサッカー漫画にハマっていたねじ子は、同人誌の参考にするべく、サッカー部の練習を毎日のように見学していて――ある日、賢吾の逸れたシュートを頭に当てて、倒れてしまった。
「だ、大丈夫です。一人で帰れますから」
　そうは言われたものの、真っ青な顔のクラスメイトを放っておけるわけもなく、賢吾は自分の自転車にねじ子を乗せていっしょに帰った。
「あのー……」
　本屋の前を通り過ぎようとすると、ねじ子の口からかすれた声が聞こえてきた。
「どうした、気分悪いのか？」
　心配そうにのぞき込む賢吾に、ねじ子は言った。
「あの、降ろしてください」
「遠慮するなよ、家はまだ先だろ？」
「ち、違うんです。今日発売の、アニメの雑誌を買いたいんで、降ろしてください……」
　思わず賢吾は、ねじ子の頭を叩いていた。
「い、痛い。なにするんですかぁ……」
「心配して損したよ」
「だって、今日買わないと売り切れちゃう……」
「一人で帰れ」

「あの時は参ったよ！まさか漫画の参考にさせられてたとは、思わなかったからさ」
　昨日のことのように、賢吾は笑う。
「いやーもう、勘弁してください。イタい女子だったのは、自分でもわかってるから」
　小さくなって謝るねじ子に、
「でもさ、結構詳しかったよな、お前。海外のサッカー選手とか、オフサイドトラップとか知ってたし。他の見学してた女子と、会話が合わなかったのもわかるよ」
　昔話にはずんでいると、サポーターの言っていた苦労話が嘘のように思える。
　だが、事実は事実だ。
「それでね、チームの話……聞いたんだけど」
　少し震えながら、ねじ子は切り出した。
「そうか」
　素っ気なく、賢吾が答えた。
「何だったら、私だって少しぐらい、都合はつくんだ」
「いや、いくら何でも主婦の小遣いを当てにするほどには」
「ううん、自分で言うのもなんだけど、旦那がすごいお金持ちなの。頼んでみれば、なんとかなるかも」
「知ってるよ、ＩＴ企業の若社長なんだろ？」
「うん」
「ありがたいんだけどさ」
　ゴールに散らばったボールを集めながら、賢吾が続けた。
「先の長い話なんだ。二年三年の話じゃないんだ。この先何年も、ずっとずっと続く話なんだ」
「……」
「お金はもちろん大切だけど、もっと大切なのは、いい時も悪い時も、チームを応援してくれる人たちなんだ。ねじ子には悪いけど、まずは地元の人たちから声が掛かる様なチームじゃなければ、大きくなっても意味がないんだ」
　ある種、理想論である。
　金がなければ、チーム作りも何もない。
　それは、賢吾にもわかっていた。
　だが。
「誰かのお金を当てにするやり方が脆いって事を、みんな前のチームでイヤと言うほど思い知らされたしね。確かにお金は大切だけど、全てじゃないんだよ」
　そこには、純真な「サッカー少年」の姿はなかった。
　苦いもの、辛いものを飲み込んで、それでも前へ進もうとする、「大人」の賢吾がそこにいた。
　――そんなこと、ないよ。
　そう言えない自分が、ねじ子はつらかった。
　会話が途切れた二人の背後で、蝉がやけにうるさく鳴いていた。

　夕食もそこそこに、ねじ子は自分の部屋に籠もった。
　主がいなくなって既に十年ほど。
　半分物置代わりに使われていたが、積まれていた段ボールの山を崩しては、中に入っているノートを一つ一つめくっていく。
　高校時代、ねじ子が描きためていたラフスケッチの数々だ。
　その殆どが、サッカー漫画のアイディアで埋められている。
　シュートのスケッチが一瞬、今日の賢吾の姿にだぶったが。
　――違うよね。
　絵の中の賢吾は、もっと楽しげにサッカーをしているように見えた。
　ねじ子はしばらくスケッチを見つめていたが、やがて意を決したようにノートを閉じると携帯電話を取り出し、メモリーの一番目にある番号――ロンドンの豪太郎を呼び出した。
「アロウ？」
　しばらくして。
「……それ、フランス語じゃないか？」
　高音質回線に乗って、豪太郎のややかすれた声が届いた。
　さすがに、長旅の疲れが溜まっているのだろう。
「いやほら、なんか外国語で喋らなきゃなと思ってたら、自然と」
「自然ねえ……」
　やけに力んでいた気もするが。
「どう、そっちの具合は」
「うん。おかげさまで、実家でのんびりさせてもらってます。父さんも母さんも、元気よ」
「それはよかった。こっちはもうすぐ帰れそうな」
「あ、その話だけど！」
　早口になるのを自分でも感じながら、ねじ子は言葉を続ける。
「ちょっと早めに、帰ってこれない？」
「早めに？」
「うん、あの、ちょっとお話があって」
「えっ、何の？何の話だい？」
　今度は、豪太郎の口調が早くなった。
「あ、心配しないで。私の事じゃないのよ。高校の時の同級生が監督やってるサッカーチームがあるんだけど、ちょっとお金に困ってるみたいで」
「僕にスポンサーをって事かい？」
「ううん、チーム作りの理想があるとかで、私が援助するって言っても聞いてくれないのよ。豪さんなら、うまく説得できるんじゃないかなあと思って。それで」
「そうか……じゃあなるべく早く、そうだな、今日中にはこっちを経つよ」
「いいの？」
「ああ。ねじ子さんの頼みなら、それくらいやるさ」
「ありがとう！」
「詳しい時間は、後でメールするから。じゃあね」
「うん」
　少し上向きになった気持ちで、ねじ子は電話を切った。

　ロンドンは曇り空の朝を迎えていた。
「お元気そうじゃないですか」
　既にネクタイ姿の豪太郎の隣で、イリアが話しかける。
　豪太郎の携帯では、待ち受け画面のねじ子が微笑んでいた。
「そうだね。それにしても早く帰ってきてほしいなんて、何の話かと思ったよ」
　やや戸惑いの表情を見せながら、豪太郎がつぶやいた。
「あら、ねじ子さんは早く帰ってきてほしくないんですか？」
「コミケ前には『一人暮らしに戻りた〜い！』、が口癖の人だよ」
「あ、なるほど。原稿に集中ですか……そんなねじ子さんが、帰ってきてほしいと」
「お金の話みたいだけど、本当にそれだけかなあ」
　腕を組む豪太郎に、イリアがささやいた。
「やっぱり、感づかれちゃいましたかね」
「そんな！」
　滅多に声をあらげない豪太郎が、思わず大声を出した。
「気づかれる様な事は、何一つしてないよ！チケットの手配も、全部会社からやったし！」
「でも、うっかり何か口にしたかも知れないですし、それに……女の勘は鋭いですよ？」
「うっわー！」
　文字通り、豪太郎は頭を抱えた。
　――そんなに気になるなら、直接本人に聞けばいいのに……。
　あれだけ順調に仕事をこなしておきながら、プライベートであわてふためく豪太郎が、イリアにはなんだかかわいく思えた。
　――ま、身から出た錆、か。