王子様と私

　いつ来てもだだっぴろい部屋だなあ、とイリアは思う。
　オフィスから目と鼻の先、高層マンションの最上階にある豪太郎の部屋は、全てのフロアをぶち抜いて作られている。
　八月ももうすぐ終わり。
　夏の思い出がコミケだけというのもなんだろう、という豪太郎の計らいで今日は身内だけのパーティーを開くことになった。
　そんな気の置けない仲間とのひとときが、イリアはたまらなく楽しい。
　もちろん、みんなも。
「はーい、パスタできあがったよー。みんな乾杯の準備よろしくー」
　結局今日もワイシャツにネクタイ姿――それでも本人はカジュアルなブランドを選んで立派にオフ感覚らしい――の豪太郎が、かいがいしくエプロンを掛けて配膳をしている。
　――おおっと！
　サラダの盛りつけをしながら、湯気の出る山盛りのパスタを見たイリアが思わず叫びかけた。
　豪太郎が作ったパスタとソースは、不思議なことにイリアが今まで食べた中で一番好みの味に仕上がるのだ。
　――ちょっと、惜しかったかなあ。
　豪太郎をねじ子にあっさり譲ってしまったことを、こんな時に後悔する自分がおかしくて、イリアは一人苦笑した。
　――でも、ま。いいか。
　いつもと代わらない笑顔でグラスを掲げる豪太郎が、乾杯の音頭を取る。
　そこからは例によってちょっとした戦場。
　ねじ子とぷぢ子が飲んで騒いでイリアが食べて、クリスと勝平は相変わらず二人だけの世界に入って、それらを豪太郎が微笑んで見守る、という図式。
　今日も二人の掛け合いが始まった。
「だいたいねじ子、ひどいぜお前。聞いたよ豪さんから」
「何をさ」
「締め切り前にデートの誘いが来たら、激怒ったんだって？」
「い、いいじゃない。前からダメって言ってた日だったんだから」
「それだけじゃ、ありませーん。豪さんにメシの差し入れとコピー取り、お願いしましたねー？」
「ひどいー！豪さんそんな事ペラペラ言う人だなんて思わなかったー！」
「論点ズレてる！お前、時給何万ドルの男働かせてると思ってんだ」
「休日は私だけのものなの！どうしようと勝手なの！」
「開き直りったな！今日という今日は引導を」
　さすがに、豪太郎が割って入る。
「おいおい二人とも、もう酔いが回ったのかい？」
「いや〜ん、ぷぢ子はしたないとこ見られちゃった〜」
「よぉやるわこのドロボウネコが」
「豪さぁ〜ん、こんな使えない女どっかに捨てて、私の紫のバラの人になってくれません〜？」
「いや、それだと直接会えないし」
「会ってくれるんですか？」
「ムキキキーッ！豪太郎さん、浮気してやる！」
　火に油だった。
　たまらず退散する。
　何か声をかけようと思ったが、目線が合っただけでイリアは言いたいことが伝わった気がした。
「あ、そろそろじゃないですか？『ワールドサッカーダイジェスト』」
「おおっ！」
　クリスの声に、残り全員が叫ぶ。
　イリアはドイツにいた頃から地元のジュニアチームで活躍もしたくらいのサッカーフリークだし、ねじ子とぷぢ子は「キャプテン翼」以来のマニアだ（ただしカップリングでは未だに相容れない）。
　豪太郎も学生時代からのめり込んでいたし、クリスと勝平はデートで日本代表の試合に行ってから、若干ミーハーながらも立派なファンである。
　五〇インチのプラズマビジョンが映し出す衛星からの画像に、十二の瞳が注目する。
　ドイツ・ブンデスリーガ、バイエルン・ミュンヘンの活躍を満足そうにイリアが見守っていると、ねじ子がつぶやいた。
「いまごろどうしてるかな、王子様」
　夏コミが終わってまもなく、アンリは母国に帰っていった。
　荷物制限いっぱいに、同人誌とゲームとＤＶＤを抱えて。　
　欧州アキヅキの話によれば、業務も順調らしい。
　――できれば年内に、もう一度合えないかなあ。
　そんな事を考えていると、ふいにチャンネルが切り替わった。
「あぁ、もう誰よ！」
　思わずイリアが叫ぶと、不思議な笑顔を見せて豪太郎がリモコンを掲げた。
「早く戻してあげてよ、豪さん」
　ねじ子の催促にも、豪太郎は笑って首を振る。
　チャンネルはＣＮＮ。
　怪訝そうな五人の耳に、やや早口の女性通訳が独特のアクセントで語りかける。
「それでは次のニュースです。先日帰国した、クラインバルト公国のアンリ王子が、ちょっと変わったパーティー…を開きました……ご覧下さい、参加者はすべて思い思いの服装、主にゲームや、アニメ…をモチーフにしたものです、そして、彼らが作った本…を宮殿で売買するという、これまでに例のない…パーティーです…主催のアンリ王子の声をお聞き下さい」
　画面は自信に満ちた王子のアップ。
　バックには伝統ある宮殿の大広間――。
「並んでるの、アレか？コピー誌じゃねえか？」
　めざとく、ぷぢ子が見つけた。
　確かに並んでいるのは、ホチキスで閉じられた、ややふぞろいなコピー誌。
　絵柄も本の装丁もまだつたないが、熱意の伝わって来そうな本が、画面に次々と映し出される。
　アンリのインタビュー通訳は続く。
「今年の夏、日本で、これまでにない体験を…素晴らしい体験をしました。とても楽しく、とても不思議なイベントでした。それを、この国でも広めようと思いました…そのイベントの名前は、コミケ、と言うそうです」
　呆気にとられた五人の耳に、豪太郎の高らかな笑い声。
「あはははは、あー、おかしい」
「ひどいよ豪さん、黙ってるなんて」
　ぷぢ子も笑いながら抗議する。
「いや、まさか、ここまで完璧に同人に染まってたなんて。君たちの指導、よっぽど熱っぽかったんだね」
「指導だったのかなあ」
　ねじ子が天を仰ぐ。
「それで、だ。このニュースを知らせてくれた電話で、王子が言っていたんだけど……年明けにも、みんなに来てくれないかって。またパーティーを開きたいそうだ。今度は本場のメンバーを呼ぶって言ったら、場内から大歓声だったってさ」
「あー、旅費は」
「心配しないでぷぢ子さん、国賓待遇だよ」
「うわあっ」
　事態の大きさに、イリアも叫んだ。
「この国さ、やっぱ右翼とかいるのかな」
　ぷぢ子が小声でイリアに尋ねた。
「んー。元々穏やかな国民性だから、移民排斥の運動とかはまだないみたいだけど……」
「ヘンな文化教えやがって！なんて言われて刺されないかなあオレたち」
「さあ……」
　――まったくもう。罪のない顔して……。
　イリアの憂いをよそに、待ち受け画面の王子は、ただ微笑むだけだ。
　――でも、ま。いいか。王室は堅苦しそうだけど、うまいこと言って日本に拉致っちゃえば、こっちのもんよね。
　不穏な考えが、晩夏の夜空に消えていく。
　イリア・ビットマンの金曜日は、まだまだ終わりそうになかった。

−終−