クラインバルトの城

　成田から飛行機で十二時間。
　そこから車で、一時間。
　霧の立ちこめる峠の脇に、
「ここより先、クラインバルト公国」
の標識が立っていた。
「検問所とか、ないんですね」
　助手席でねじ子が言った。
「小さな国だし、周りとはずっと友好関係があるし。それに人口がたった三万じゃ、本気で攻められたら防ぎようがないのよ」
　ハンドルを握りながら、イリアが答えた。
　ぷぢ子は後ろのシートで眠り惚けている。
　海外旅行が初めてとはいえ、機内で彼女は少しはしゃぎすぎた。
　アニメのＤＶＤを持ち込んで上映会を繰り広げ、口にしたこともない美酒や珍味に酔いしれた挙げ句、着陸間近となってからぴくりとも動かなくなった。
　苦笑するアテンダントが彼女をレンタカーまで運ぶ姿を見て、さすがのねじ子もため息をついた。
　そんな「狼藉」が許されたのも、乗っていたのが普通の旅客機ではなく、豪太郎所有のプライベートジェットだったからだ。
　全長は二十メートルほどだが、キャビンはちょっとしたリビング並の広さ。
　バーカウンターやシャワールームまで備えてある。
　お値段は、約三〇億円ほど。
　普段は豪太郎が商用で使っているのだが、今回はねじ子達のために特別に手配してくれたのであった――それが吉と出たかどうかは、別として。
　三人の行き先はヨーロッパの真ん中に位置する小国、クラインバルト。
　そこの第七王子、アンリに会うのが今回の主な目的なのだが。
　――久しぶりの再会なのに、どうしたのかな。
　イリアの元気のなさが、ねじ子には気がかりだった。
　ぷぢ子の事もあったが機内ではずっとデスクルームにこもり、あまりねじ子たちと口をきくこともなかった。
　国境からしばらく続く深い森を抜けると、まるで時が止まった様な古い家並みが見えてきた。
「静かなところですねえ」
　ねじ子の問いかけに、イリアは苦笑した。
「でも、退屈なところよ。ほんとうに何もないから。みんな最初は静かでいいなって思うけど、二、三日もすれば帰りたくなるの」
「そんなものですかね。故郷と雰囲気が似てるから、私は大丈夫だと思うな」
　――そんな人ばかりだといいんだけど。
　イリアは心の中でつぶやいた。
　公国の主な収入源は観光だったが、娯楽の多様化につれて入国者はここ十年あまり減る一方だった。
　やがて車は湖のほとりにある、ひときわ古い建物の前で止まった。
　それほど高さと広さはないが、左右にそびえる塔が印象的な古城――クラインバルト城だ。
「着いたわよ」
　イリアの声に、ぷぢ子はまだ起きない。
　現地時間で夕方の六時。
　日本は、夜中の二時を過ぎたところ。
「しょうがないなあ。ほら、起きなよ」
　ねじ子が額をはじくと、ぷぢ子は体をふるわせて目を覚ました。
「あ、ああ。着いたんだ。いやあ初めての海外旅行だから、緊張しちゃってさあ」
「寝ヨダレ、出てるよ」
　ねじ子が冷静に指摘すると、
「か、鏡どこだっけ……うわ、おでこにバッグの跡が」
　あわてる彼女の前に、一人の少年が城から出てきた。
　隣には背筋の伸びた、髭の似合う中年男性。
「みなさん、お久しぶりです。こちらは執事のマティアス」
　少年は、なめらかな日本語でそう話した。
　公国第七王子、アンリ・クラインバルトだった。
　日本に来る時のラフな服装と違い、今日はホスト役とあってか珍しくネクタイ姿だ。
「お久しぶりー。背ぇ伸びたねえ！もう、半ズボンじゃないんだ」
　親戚のおばさんみたいな、ねじ子。
「おかげで日本で買った服、入らなくなっちゃって……ぷぢ子さん、熱でもあるんですか？」
「そうじゃないんだけど、その、ね」
　額に当てた手を、ぷぢ子は離せない。
「お二人とも疲れてるでしょうから、夕食まで部屋で休んでいて下さい。私は少し、王子と話がありますから」
　マティアスに続いて二人が城の奥に消えると、イリアはあらためてアンリに向き直った。
「お久しぶり。本当なら、こんな話で会いたくなかったんだけどね」
　彼女は深くため息をついた。