トゥトゥーラの島

　太陽は西に傾き始めたものの、陽射しはまだまだ強かった。
　静けさを取り戻した砂浜で、リズミカルにボールがはずむ。
　足、膝、胸、肩、頭。
　まるで会話を楽しむかのように、豪太郎はビーチボールとたわむれる。
　英国留学時代に身につけたテクニックは、今も健在だ。
　ねじ子は、コテージで昼寝中。
　トゥトゥーラがくれたクリームのおかげで火照りは治まったものの、機嫌までは直らなかった様だ。
　ふて寝する妻の隣で、鑑賞を続けるのはさすがにしのびなく。
「大丈夫だって、誠意は見せたんだろ？甘えてるんだよ、ねじ子は。あとは余計なこと言わないで、向こうが折れるのを待ってればいいんだよ！」
　そう言って、ぷぢ子はショッピングへ出掛けた。
　イリアと王子は、相変わらず帰ってこない。
　仕方なく豪太郎はひとり、ボールと戯れる。
　――不器用だなあ。
　自分には結婚が向いてないのでは、とさえ思う。
　手本とすべき家庭がなかったのは大きいのだが、これぐらいのトラブルで落ち込んでしまうのは、経験不足を感じずにはいられない。
　――待つしかないのかなあ。
　雑念が交じり、ボールはあらぬ方向へと逸れていった。
「あ……」
　ボールの転がった先に、トゥトゥーラがいた。
「……」
　彼女の固く結ばれた唇に、豪太郎は一瞬声を掛けるのをためらったが、じきに笑いがこみ上げてきた。
　拗ねたような表情が、今のねじ子そっくりだったからだ。
　豪太郎の笑顔を見て馬鹿にされたと思ったのか、トゥトゥーラは力いっぱいボールを蹴り返してきた。
「！」
　ボールは豪太郎の肩をかすめ、後ろへと飛んでいった。
「やるなあ」
　苦笑しながら足でボールを拾うと、
「今度はどうかな？」
　ふわりと蹴り上げた。
　トゥトゥーラはその場で飛び跳ねたが、ボールは頭をわずかに越える高さで通り過ぎていった。
「あっはっは！」
　我ながら大人げないと思いつつ、豪太郎は声をあげて笑った。
　トゥトゥーラの顔が真っ赤になっていく。
　先ほどよりさらに速いシュートが、豪太郎に向かっていった。
「おっと！」
　今度は右足で捉えた。
　そのまま二度、三度とボールを膝で跳ね上げる。
「それっ」
　やわらかいタッチのパスが、今度はトゥトゥーラの胸元へ飛んでいく。
　またトゥトゥーラが蹴り返す。
　交わす言葉のないまま、それでもボールのやりとりは続いていった。

　そのころ、島の裏手では。
「……」
　水着姿を岩陰に潜め、イリアが様子をうかがっていた。
「男二人でプライベートビーチ？」
　目線の先では、男たちがゴムボートから島に上がろうとしていた。
　顔には見覚えがある。
　ヤン・グランドカンパニーの社長と秘書だ。
「貸し切りなんだから、他にお客さんなんて来ないはずなのに。どうしたんでしょうね、いったい」
　王子も怪訝そうに見守る。
「すみません、みんなに連絡をお願いします」
　「自由行動」はいったん中断だ。
「イリアさんは」
「私はここで様子を見ます」
「お気をつけて」
　そう言って走り去る王子の背中を見て、イリアは少し反省した。
　――久しぶりだからって、がんばりすぎたかな？

　もはや質問する気も失せた比須田が、ヤンの後ろに力なく続いていく。
　しばらく砂浜を歩くと、小さな洞窟が見えてきた。
「君はここで待っていたまえ」
　比須田が黙って頷くと、ヤンは洞窟の奥へと進んでいった。
　――やれやれ。
　視界からヤンが消えると、比須田はバッグからタバコを取り出した。
「秋月を追いかけてストーカーの真似事かと思ったら、今度は宝探しですか……」
　さらに求人誌も。
「五〇代前半、経験問わず……ないよねえ」

　くたくたになるまで走り回ったのは、何年ぶりだろう？
　砂浜に座り込んで、豪太郎は荒い息をはずませていた。
　トレーニングで流す汗とはまた違った、心地よい疲れが体の中に満ちていく。
　ビーチボールを抱えたトゥトゥーラも、いつの間にか笑顔になっていた。
　ふたりとも、海を見つめて心の底から笑い続けた。
　やがてトゥトゥーラは、自分が下げているペンダントを手に取ってみせた。
　中には、母親らしき女性の写真が入っていた。
「そうか、君も母さんがいなかったんだな……Cho,cale.（僕も同じさ）」
　その言葉に、トゥトゥーラは豪太郎の胸に飛び込んでいった。

「さあ、事情を話してもらいましょうか？」
　胸元を掴まんばかりの剣幕でまくしたてるのは、イリア。
　今にも泣き出さんばかりに震えているのは、比須田である。
　普段の正義感に「自由行動」を邪魔された怒りが加わって、イリアの迫力も三倍増しである。
　可哀想に、比須田には彼女の水着姿を堪能する余裕すらない。
「それにしてもお久しぶり。ジオテックの合併騒ぎ以来ですかね。転職先の居心地はいかが？」
「ま、まあまあと言ったところで……」
「それは何よりね。で、上司のバカンスにつきあったら、偶然この島までやって来たと」
「そ、そうです、全くその通りです」
「甘えるんじゃないよ！」
　踏み込んだ勢いで、砂が舞い上がる。
　涙を流しながら咳き込む比須田だが、イリアの勢いはとまらない。
「プライベートビーチに、ふらふらやって来る奴がいるもんですか。それに今は貸し切り中なんだから、ホテルだって予約は取れないわよ？」
　八方ふさがり。
　観念した比須田が、か細い声で切り出した。
「な、なんでも言いますから、社長には黙っていてください」
「ヤン？豪太郎さん？どっち？」
「あ、できれば両方……って、無理ですよね」
　黙ってうなづくイリア。
「わかりました、言いますよ……秋月社長がこの島でなにか秘密のミーティングをするんじゃないかって、偵察をしていたんですよ」
「なにかわかった？」
「わかるわけないじゃないですか」
　完全に涙声。
「まあ、額面通りに受け取っておくわ。で、おたくの社長は何を探しに行ってるわけ？」
　比須田は、まっとうな意見が通じそうな相手と、こんな出会いをしなければならない我が身を呪った。
「お宝だそうです」
「お宝？」
「ええ。なんでもこの島の洞窟に、昔のお宝が眠っているとかで。訴訟費用の足しにするんだって」
「ここまで来てそんなこと……語るに落ちたわねえ」
「正直、しんどいです」
「じゃあ、止めに行きましょう。どうせ奴のことだから、お宝が見つからない腹いせに洞窟を荒らして帰りそうだし」
　そう言ってイリアが、足を踏み出そうとした時だった。
　大きな地鳴りと共に、地面が揺れ始めた。
「この振動の伝わり方は……」
　地震かと思ったが、なかなか揺れは収まらない。
「イ、イリアさん」
「なによ」
　比須田の声に、イリアは怪訝そうに返事をした。
「空です、空を見てください」
「あっ！」
　ついさっきまで輝いていた太陽を隠すように、みるみるうちに黒い雲が低く垂れ込めていく。
「そんな、いくらなんでも早すぎるわ！」

　瞬く間にスコールが屋根を叩き始めた。
「うわぁ、南の島の天気って変わりやすいんだ」
　雨音で目を覚ましたねじ子がのんびりとリビングの窓を閉めていていると、びしょ濡れになったぷぢ子が飛び込んできた。
「おい、そんな場合じゃないだろう！」
「あら、お帰りなさい。雨、すごいねえ」
「海もすごいことになってるぞ！」
「見に行こうか？」
「まだ寝ぼけてんのか？豪さんだよ、豪さん。ビーチに行ったままじゃないのか？」
　ねじ子の中で、回路が一瞬にして繋がった。
「豪さーん！」
　裸足のまま、ビーチへ掛け出していく。
「あ、おいっ！……しゃあねえなあ！」
　すぐあとをぷぢ子が追う。
　雨と風はますます強さを増していった。