トゥトゥーラの島

　ねじ子の夏は、コミケに始まってコミケに終わる。
　すなわち毎年お盆過ぎから秋風が吹き始めるころ、次の即売会の準備にはいるまでは――普段の五割り増しで――ふぬけた毎日を送るのであるが。
　今年のねじ子は違った。
「このエロ人妻がぁ！」
　強い陽射しが照りつける砂浜で、ぷぢ子は歯茎をむき出しにする。
「えー。せっかくのプライベートビーチだよ〜。南の島で、旦那と五日間いっしょよ〜ん。開放感バリバリじゃな〜い！」
　涼しい顔とはこのことだろう。
　おさまらないぷぢ子が、水を掛けても気にもとめない。
　白のワンピース水着――と言えばおとなしく聞こえるものの、胸元は深く大きく割れている。
　普段のねじ子からは、想像できない大胆さだ。
「コスプレか何かと間違えてんじゃねえよ！」
　ぷぢ子が新調した赤い花柄のセパレーツ（パレオ付き）が、スクール水着のようにおとなしく見える。
「でもさ、もっと気合い全開な人には負けるよね」
「ああ、イリアか」
　二人が受けた衝撃が消えるまでには、ちょっと時間が掛かりそうだ。
「布地と言うよりは紐だったよね、アレ」
「王子、ソッコーで拉致られてたな」
「あの子、帰る頃には腰抜けてるかも」
「朝っぱらから元気だよなあ、肉食人種は」
　八月の終わり。
　豪太郎の提案でねじ子達五人は――ぷぢ子が微妙にささくれているのは、彼氏の都合がつかなかった所為だ――短いながらもバカンスを過ごす事になった。
　赤道近くの小島、南アタリア島。
　会員制のリゾート地であるが、この五日間は豪太郎が貸し切りにしてしまった。
　おかげで、ねじ子も珍しく旅先で気兼ねせずに過ごせるはずなのだったが。
「で、そこまでフェロモン全開になってて、ダンナの方は何やってんだい。生理で見学か？」
　ぷぢ子の身も蓋もない質問に、ねじ子はあごでコテージを指し示した。
「今日は一日、中に居るんだって」
「え？なんで？」
「買ってきたＤＶＤボックス、休みの間に最後まで見るんだって！」
「ああ、うちのお店で買ってくれた奴ね……って、あれ全部で二十時間くらいあるんだぜ？どーしたの、急に」
「私が聞きたいくらいよ。まさかせっかくのバカンスが、トクサツのＤＶＤでつぶれるなんて」
　あてが外れたねじ子が、ふてくされた様に言った。
　確かに機中からずっと、寝る時間も惜しむかのように豪太郎はＤＶＤを見続けていた。
「まあ、あれだ。動物は鏡を見せられると、おもしろいほど慌てるって言うからな」
「なんだとー！」
　そのまま組んずほぐれつ――海中に体半分沈めながら、ねじ子とぷぢ子の本気勝負（セメントマッチ）が始まった。

　そんな騒ぎが起きているとは夢にも思わず。
　豪太郎の「鑑賞会」は後半に差し掛かっていた。
　誰もいないコテージのリビングで、ひとりソファに座る。
　画面では「銀色の巨人」が、夕闇を背景に怪獣と格闘中。
　デジタル・リマスターのおかげで、赤茶けた再放送とは比べものにならない鮮やかさだ。
　子供時代の空白を埋めるかのように、豪太郎は真剣に画面を見つめていた。
　大人の目で見てみると、ストーリーや何気ないセリフに隠された深い意味もさることながら、登場人物たちの「大人ぶり」に気づかされる。
　誰もがみな個性的だが、共通しているのは大人としての責任ある言動に加えて、個人の意見をしっかり持っているところだ。
　限られた時間で怪獣や巨人の活躍を描こうとすれば、必然的にその他の場面はスマートにならざるを得ないのだろうが、それを差し引いて考えても「大人たち」は立派だった。
　――自分は、どうなんだろうな。
　豪太郎は、我が身を振り返っていた。

　島の沖合に、一隻のクルーザーが停まっていた。
　デッキでは中年の男が一人、双眼鏡を覗いている。
　南の空の下、青白い肌にアロハシャツが実に不似合いだ。
　やがて男は、静かに笑い出した。
「フフフ……久しぶりだね、アキヅキの諸君」
　声の主は、リチャード・ヤン――世界的なＩＴ企業、ヤン・グランドカンパニーの総帥である。
「さすがは秋月豪太郎。私の来ることを見越して、秘書と二人で密談中か……」
　満足げに語るヤンに、
「いや、その……社長」
　キャビンから、か細い声で突っ込みを入れるのは秘書の比須田。
　同じように、双眼鏡を手にしている。
「私が見たところ、海辺で秋月の奥さんが暴れてるくらいで、別に目立った様子はありませんが」
　しごくまっとうな意見であるが、この場合相手が悪すぎた。
　ヤンのようなトップがもっとも嫌うものが、この「まっとうな意見」である。
　他人と違うことをやって生き延びてきたおかげで、「回りと同じ事を考えていたら死ぬ」と思いこんでいる者も少なくない。
　それが極端な方向に行ったままになると――会社が安定期に入ったのも気づかず、リスクの大きい事ばかり手がけようとする――要するに今のヤンみたいな経営者のできあがりだ。
「比須田君、キミは馬鹿かね？」
　秘書になってから、何度目のセリフだろう。
「あの秋月が人目に付かない場所で五日も過ごすとなれば、何かあるとは思わないのかね？」
　せまいキャビンの中、比須田は身を小さくして延々とヤンの説教を聞く羽目になった。
「……」
　五分が過ぎたが、いっこうに終わる気配を見せない。
　ヤンからキャビンの中が見えないのをいいことに、比須田は衛星経由で秘書室からのメールをチェックし始めた。
「……謝罪の会見、釈明の想定集、弁護士との打ち合わせ……顧客名簿がまた流出した件、ぜんぜん片づいてないのに、わざわざ来るような所なんですかねえ……はあ」

「いただきまーす」
　コテージの隣にあるレストランで、昼食が始まった。
　湿った潮風が、フロアを吹き抜けていく。
　豪太郎の隣、仏頂面を絵に描いたような顔でランチを食べているのは、ねじ子。
「あれ、どうしたんだい？肌、真っ赤じゃないか」
　夫の呼びかけにも答えず、黙々とカニの盛り合わせを口に運ぶ。
「ちょっと、ダンナ、ダンナ」
　まるで時代劇の情報屋のような態度で、ぷぢ子が豪太郎に話しかける。
「マズいっスよダンナぁ、さすがに」
「そうかい？」
「あったり前でしょうが。わざわざ南の島まで来て、愛する奥さんほっといてトクサツなんか見てる人がいますかって。こいつ、ヤケになって焼いてましたぜ？」
「やっぱり？でも、ねじ子さんにはＯＫもらってたし……」
「そこがいけないんですってば！女子がＯＫ出しても、半分はＮＧ！ＮＧ出してても半分はＯＫなのと、裏返しなんですよ！」
「そうなんだ」
　豪太郎の気持ちは素直に謝罪へ傾くが、ねじ子の苦々しい顔はちょっとやそっとでは治りそうにない。
　普段ならここでイリアが仲介役になるのだが――自由行動が続いているらしく、王子共々まだ戻ってきていない。
「……」
　気まずい沈黙を、ねじ子が破った。
「あー、イタいイタいイタい！」
　自己紹介か？とぷぢ子が疑問を口にする隙も与えず、ねじ子は椅子から立ち上がった。
「いたいよー！」
　両腕を濡れタオルでさすりながら。
　皮も掻きむしってしまいそうな勢いだ。
「ああ、僕がクリームを」
　言いかけた豪太郎の脇から、小さなガラス瓶がテーブルに置かれた。
　一同がそちらに目をやると。
　黄色いワンピースを着た一人の少女が、恥ずかしそうな顔をして立っていた。
　歳は十歳前後。
　三つ編みにされた黒い髪が、褐色の背中まで伸びている。
「ありがとう。これ、使っていいのかい？」
　豪太郎の質問にも、黙ったままだ。
　通じてないのかと思い、いくつかの言葉で話しかけてみたが、やはり黙ったままだ。
　そこへ。
「やあ、驚かせてすみません」
　厨房から、恰幅の良いエプロン姿の男がやってきた。
　中南米特有の訛のあるスペイン語――料理長のガルシアだった。
　男は少女の隣まで来ると、大きな手を頭に置いた。
「私の娘で、トゥトゥーラと言います。ほら、黙ってないであいさつなさい」
　その声に、小さく頭を下げる少女。
「すみませんね、人見知りする子で。これ、火照り止めのクリームです。この島で取れる海草から作ってあるから、よく効きますよ」
「助かります」
　豪太郎は礼を言うと、瓶をねじ子に手渡した。
「えーと、"Graciase,Senorita."でいいのよね？」
　珍しくねじ子が滑らかな外国語を披露したのだが、少女はガルシアの手をふりほどくようにして、外へ走り去ってしまった。
「ああ、お気になさらないでください」
　すまなそうにガルシアは言った。
「生まれてすぐ、母親が亡くなりましてね。男手ひとつではどうにも行き届かないところがありまして……滞在中、ご迷惑をお掛けします」
　その言葉に、豪太郎は静かにうなずいた。