トゥトゥーラの島

　豪太郎の遅い帰宅を待っていたのは、夏野菜たっぷりのドライカレーだった。
　今朝方よりはいくぶん、機嫌が上向きになったらしいねじ子が皿を持ってくる。
「ありがとう。おいしいよ」
　確かに、結婚当時にくらべればまともな具も入る様になった。
「どういたしまして」
　先に夕食を済ませていたねじ子は、そのままリビングのテレビへと向かった。
　――棚？
　壁際にある五〇インチのプラズマを囲むように、いつの間にか大きな棚ができあがっていた。
　おおかた、業者を呼んだのだろう――独身時代、衣装ケースすら満足に組めなかったねじ子だ――棚はぎっしりとＤＶＤに埋め尽くされていた。
　そこからねじ子は一つの塊――いわゆる「ＤＶＤボックス」――を引き抜くと、さらに一枚のディスクを取り出した。
　――なんだい、それ。
　豪太郎はねじ子に尋ねようとしたが、以前アニメ鑑賞を中断させた時の怒り様を思い出してやめた。
　間もなく、オープニングが流れ始めた。
　年代が古いのだろうか、いま風のものから比べると鮮やかさに欠ける画面だ。
　キャラクターのデザインも、いささか「濃く」感じられる。
　それでも、ねじ子はご機嫌だった。
　初めはソファに寝そべっていたが、オープニングと同時に上半身を起こし、本編が始まるにつれて、体全体が前のめりになっていった。
　壮大なオーケストラ音楽が流れる中、主人公らしき男のセリフにいちいちうなづいたり、同じ言葉をつぶやいたり。
「ずいぶんご機嫌だけど、それ何のアニメだい？」
　――しまった。
と思う間もなく、画面が止まってねじ子が振り向いた。
「ああ、ごめんごめん」
　謝ろうとした豪太郎を制して、
「フッ。お前が見ていたのは、楽しい幻だったのさ。現実は、ほら……」
　芝居がかった口調と身振りで、ねじ子が返した。
「えーと……それは、このアニメに出てくる人のセリフなのかい？」
　得意顔の自分に向かって、普段と違うきょとんとした様子の夫に、ねじ子は思わず苦笑いをした。
「中学生ぐらいの時かなあ。土曜の夜、やってたのよ、これ。ビデオデッキもなかったから、毎週ナマで見てたの。見逃したらもう悔しくて悔しくて」
「へえ。僕は、見たことないなあ」
　静かに答える豪太郎。
「あ、この頃はもう外国に行ってたんだっけ？」
「いや、まだ日本にいたよ」
「でも、見たことないんだ。あー、わかった。ご飯の時は、テレビがダメだったんでしょ」
「いや、ご飯じゃなくてもテレビは」
「見ちゃいけなかったの？」
「まあ、ね。ニュースぐらいかな、見てよかったのは」
「うわっ、つまんなーい！」
　理解できないといった表情で、ねじ子が返す。
「そう言う子、クラスに時々いたけどね。お母さんの方針とかで。だからって成績いいとは、限らなかったけど」
「ま、僕も成績とは結びつかなかったけどね。父親の方針だったんだよ。子供に娯楽は不要だって」
「本当だったんだ」
　あまり昔のことを話してくれない豪太郎だが、ねじ子も噂だけは聞いたことがある。
　家系――いわゆる一代の「成り上がり」――の割には、厳しいところだったこと。
　あまり風通しのいいところでは、なかったこと。
　結婚前は、自分の両親にずいぶんと心配されたものだ。
　もっともねじ子が会おうにも、豪太郎の親父殿は、彼が大学生の時に亡くなっていたのだが。
「テレビもそうだけど、おもちゃやマンガも、絶対に許してもらえなくって。それでいて、ちゃんとした教育方針があった様にも思えなかったし――今にして思うと、あの人は単に子供が嫌いで、威張りたかっただけなんじゃないのかなあ」
「そんな、自分が生ませておいて勝手だよ」
「ほんと、社長だかなんだか知らないけど、勝手な人だったなあ」
　苦い笑いをしながら、豪太郎は言った。
　昔のこと――とりわけ、父親にまつわる話は、ねじ子には聞かせたくないところだ。
　いくら言ったところで、つらかった過去が変わるわけではない。
　当人が謝ってくることもない。
「でもね」
　と、豪太郎は続ける。
「時々、ねじ子さんたちがうらやましくてたまらなくなるんだ。昔のアニメやゲームの事、よく覚えてるだろう？今も友達とその話で盛り上がったり、こうやって当時を振り返ったり……僕に比べて、人生を二倍楽しんでいる気がするんだよ」
「それは大げさだよぉ」
　ねじ子は笑ったが、今度は豪太郎は笑わなかった。
　代わりに。
「ところで、明日の予定なんだけどさ」
　そう切り出した途端、ねじ子の顔色が変わった。
「ダメだってば！」
「まだ何も言ってないよ」
「どこかに行こうとか言われても、ダメだからね。前から言ってるでしょ、明日も明後日も、コミケが始まるまではずーっと原稿なんだからね！」
　すごい剣幕で言い返すねじ子を、両手で静止しながら豪太郎は言った。
「違うよ。明日はちょっと、一人で出掛けようと思うんだ。構わないよね？」
「なんだ、そうなの。私の部屋のドアを夕方まで開けなければ、何をやってもいいよ」
「ああ。もし開けたら？」
「鶴になって飛んでっちゃうからね」
「しないしない、そんなこと」
　――で、そのＤＶＤはいつ見終わるんだろう？原稿はいつやるんだろう？
　口には出せない疑問を抱きながら、豪太郎は明日のスケジュールに思いをはせていた。