とまらない想い

【東京・新宿　アキヅキ本社】
「ねじ子さーん」
　照明が落ちたロビーで一人、ソファにぽつんと座る妻を見つけて、豪太郎は苦笑した。
「ごめんなさい」
　小さく体を折る、ねじ子。
「いいんだ、君が無事でなによりさ」
　優しい声を聞いて、ねじ子はすっと豪太郎の脇に立つ。
「じゃあ、お夕飯もおねだりしちゃおうかな」
　絡ませてくる腕を、なぜか豪太郎は振りほどいた。
「どうしたの？」
　怪訝な顔をするねじ子に、豪太郎は冷たく言い放った。
「悪いけど、ここまでだよ」
　その声を合図に、フロアの照明が一斉に灯される。
　まぶしさに目が慣れると、警備員がずらりと二人を取り囲んでいた。
「え？なに？」
　うろたえるねじ子を見て、豪太郎は静かに言った。
「ご苦労様でした、結果はともかく。どこが雇ったかはだいたい見当が付くけど、まさかこんな手を使ってくるとは、僕も驚いたよ」
　じりじりと間合いを詰めてくる警備員を見て、ねじ子――に変装した女性は苦笑いを隠せなかった。
「どこで気がついた？」
「最初からさ。発信元を隠そうと公衆電話から掛けてきたまではいいけれど、相手の調査はもっと綿密にしなきゃね」
「どういう事？」
「ねじ子さんは僕の携帯番号、覚えてないんだ」
「メモや手帳に控えていたら」
「しないしない、そんな事。そこでまずおかしいと思った。それに、財布をなくしたら落ち着いて警察には連絡できないし、たとえひと区切りついたって、原稿が終わるまでは買い物なんかに行きやしない」
「ずいぶんユニークな奥様だこと」
「ありがとう。あと、その服。ねじ子さん、そんなコマダムっぽいのは持ってないよ」
「ＴＶのインタビューで着てたじゃない」
「あれは番組のコーディネーターが貸してくれたんだ。『奥様には申し訳ありませんが、イメージ的にこちらをお勧めいたします』ってね」
「ヤラセだったの！」
「演出だよ演出。おかげで間抜けなスパイを捕まえられたしね」
「……くっ」
　観念した賊の様子を見て、警備部長が捕獲の合図を出そうとした時だった。
　一瞬にして煙がフロアに広がる。
「！」
　豪太郎のアタッシュケースが、彼の左腕から消えた。
「悪いけど、これはいただいていくわ。素敵な奥様によろしくね」
　言うなり賊は、外へと掛けだしていく。
「なんとしても捕まえろ！早く！」
　豪太郎の声を受け、警備員達が後を追っていった。
　が、しばらくして。
　フロアの煙が引いた頃、全員が戻ってきてしまった。
　意外なほど落ち着いた声で豪太郎が尋ねる。
「どうだった」
「待たせてあった車で、代々木上原方面に逃走した模様です」
「ありがとう。通常体制に戻っていいぞ」
　フロアの明かりが消えていく。
「匿名の情報どおりでしたな。こちらの仕掛けに、ここまではまるとは思いませんでしたが」
　警備部長が言う。
「僕もさ。本当にやって来るなんてね」
「さて、最後までうまく行きますかな」
「さあね」
　まんざらでもない表情の豪太郎。
　二人の傍で、イリアが少し呆れた様につぶやいた。
「やっぱり、演技がちょっと……力みすぎなんですよね」

【ヤン・グランドカンパニー社長室】
「ご苦労だった」
　珍しく、ヤンは部下にねぎらいの言葉を掛けた。
「恐れ入ります」
　スーツ姿の女性――ねじ子に変装していたスパイ――が頭を下げた。
　ヤンの机に、アタッシュケースが置かれた。
「確かに、奴のものだな」
「ええ。中をご覧ください。鍵は開けてあります」
「……これは？」
　白手袋をはめた手で、ヤンがクリアファイルを取り出した。
　中には書類の様なものが入っている。
「メールアドレスに、ホームページアドレス……最後のはなんて書いてあるんだ？」
「『初日・Ｐ−３７ｂ』……暗号か何かですかね」
「よし、あとは私が調べよう。下がっていいぞ」
「はっ」
　一礼して、女性は部屋を後にした。
　一人残ったヤンは、文字通り舌なめずりしながら、「戦利品」の品定めに余念がなかった。

【横浜・みなとみらい　ねじ子のマンション】
　玄関に足を入れた途端、カレーの匂いが鼻を突いた。
「おかえりなさーい。今日はシーフードにしてみたの」
　昨日までとはうってかわって、明るい声。
　フリース地のスウェットに身を包んで、ねじ子は夫を迎えた。
「ただいま。どうしたの、今日は余裕だね」
「原稿が一段落したの」
「そりゃ、よかった。気晴らしに買い物でも行った？」
　豪太郎の質問に、ねじ子はプライドたっぷりで返事をする。
「えー？やっぱり入稿するまでが原稿描きなんだから、それまでは出掛けるわけには行かないよ〜」
「さすがだね」
「あ、でもちょっとネットショッピングしちゃった。自分のお金で買ったからいいでしょ？」
「ああ、いいよ」
「よかった〜。いまご飯よそうから、ちょっと待っててね」
　そう言って台所へ戻ろうとしたねじ子を、豪太郎は後ろから抱きしめた。
「え？」
　不意をつかれて、ねじ子の体がこわばっていく。
　コートの中に包み込むようにして、豪太郎は妻の感触を確かめ続けた。
「あ、あの、今日は、大丈夫っていうか、その、私は、別に、い、いいんだけど、いや、もう、臨戦態勢って感じで、背中に、あ、当たって、ん、あっ」
　ねじ子の頭が、空白で満ちていく。
　その日の夕食は、夜食になった。