Start Up!

　晩秋の日曜日。
　やわらかい昼下がりの陽射しが、海沿いの街に降り注いでいた。
　横浜、みなとみらい。
　近代的なビルやテーマパークが建ち並ぶ。
　その一角にそびえ立つ、横浜国際平和会議場――通称、パシフィコ横浜。
　平日のビジネス客とは違い、普段着姿の人々が、あちこちで列をなしている。
　今日は「第十六回コミックスタシオン」、同人誌即売会の開催日だ。
　年二回のコミックマーケットには負けるものの、数ある即売会の中ではトップクラスの規模である。
　その会場内、とあるサークル。
　机の裏手にある売り子のスペースで、原色のコスプレ衣装に身を包んだ女性たちが笑顔をはじけさせている。
　その無邪気さは十代の少女そのまま。
　体型は「豊満」というレベルからかなり越えた程度。
　話題の中心は、今日買ったばかりの同人誌。
　美少年たちの絡みあいが主体の、いわゆる「やおい本」だ。
　女同士の気楽さも相まって、ずいぶんあけすけな単語が飛びかっている。
「半年も待たせてこんなペラペラの新刊だよ。しかもワンパの監禁調教」
「センス十年前なんだよ。終わったね、あのサークルも」
「ていうかさ、このジャンル自体が下火じゃん？みんなもう他に移ってるよ」
「そーだねー。もっといい攻めキャラ、出てきたし」
　いくつになっても悪口は楽しいし、言い合っている間は自分が傷つくこともない。
　おそらく、この三人は自分には優しい人種なのだろう。
　その一人が、隣で椅子に座ったままの女性に、気がついたように語りかけた。
「あ、ねじ子。留守番ありがと。頼まれた本買い忘れちゃったけど、いいよね？」
　ねじ子と呼ばれた女性が、顔を上げた。
　白いブラウスを擦り切れたカーディガンに包み、厚ぼったいコットンのロングスカートは、今日の天気では少々暑そうだ。
　ひっつめにしたロングヘアの艶やかさが、かえって不自然に感じさえする。
「うん、いいよ。あとで行って来る」
　薄い唇が、慈悲の言葉を口にした。
　化粧っ気のない笑顔。
「ごめんね。なんかあんたの約束って、忘れやすくてさあ」
　かなり不躾な受け答えだが、誰も咎める者はいなかった。
「ところでさー、さっき他のサークルから誘われちゃったのよー。この後どうですか？って」
　コスプレ女「その二」が、話を切り出した。
　ねじ子を除いた残りの二名が、すかさず相づちを打つ。
「そうそう、割と若いオトコ多かったよ」
「行こう行こう！」
　皆声は弾んでいるが、目線はお互いを牽制している。
　趣味に打ち込み、気がつけば二十代も半ば。
　普段は男がほしい素振りも見せないし、シングル生活だって十分楽しいけれど、やはり目の前にごちそうが並べば、味見くらいはしてみたい年齢だ。
　そうと決まれば、行動は早い方がいい。
　すばやく机と椅子を片づけ、あとはさっさと着替えるだけになった三人組。
「あ、ねじ子はどうするの？」
　お情けで声を掛けるのでは、ない。
　一段と地味な彼女を誘うことで、自分たちの引き立て役にしようという策なのだ。
　でなければこんな女、誰が仲間なんかに。
　そんな思いを知ってか知らずか、ねじ子は小さく首を横に振った。
「あたし、約束があるから」
「えーっ！」
　失望と疑惑の混じったリアクション。
「なにー？まさか男？」
「まさかねー」
　相変わらず、油断のない目つきで三人組がねじ子を見つめる。
「そんなんじゃないよ、ちょっと帰りに寄り道していくから。さっきの新刊も買ってきたいし」
「そーだよねー」
「ねじ子に男なんてねー」
「意外すぎて現実味ないよねー」
　自分たちを安心させるかの様に、彼女たちは口々につぶやいた。
「じゃ、お先に」
「ねじ子もたまには気分転換しないとね」
「じゃあねー」
　無邪気な女たちが、ねじ子の視界から遠ざかっていった。
　たぶん更衣室では、ねじ子を肴に悪口話が盛り上がるのだろう。
　――なんてわかりやすい人たち。
　ひとりに残されたねじ子は、唇を少し曲げてほほえんだ。
　三人組とは別の出口から、海の見えるテラスへと歩いていく。
　にぶく銀色に光る波間からの風は、さすがにひんやりとしている。
　人いきれでのぼせた頭を冷ました後、ねじ子は真っ赤な携帯を取り出した。
　慣れた手つきで、メモリーの最初にある番号を呼び出す。
「あ、豪太郎さん？いまレインボーブリッジなの？うん、気をつけてね。いつものところで待ってるから」
　短い電話を切ると、彼女は静かにつぶやいた。
「ごめんね。だって豪太郎さんのフェラーリはツーシーターなんだもん。あんたたちの乗るとこなんて、どこにもないの」