コンビネーション・サマー〜１９９５バーチャの夏

　その日も、街は焦げ付くような陽射しにさらされていた。
　街に流れる空気の温度も、体のそれを軽く越えていた。
　時刻は正午を少し過ぎたあたり。
　彼――香坂薫は、昼食のハンバーガーをあわただしく詰め込むと、いつもの様にこの店に来て、いつもの台の前に座った。
　駅前のゲーセン。
　夏季講習の昼休みも、彼にとってはトレーニングの時間だった。
　チノパンのポケットからコイン――高校１年の身にとっては貴重な小遣い――を取り出すと、慣れた手つきでシュートに入れた。
「CHALLENGER COMES」
　雷鳴音と共に、画面に文字が光った。
　幸いなことに、今日の相手は立ち上がって威嚇してくるような奴ではなかった。
　以前そういう手合いとやって、薫はひどい目にあったことがあった。
　相手の持ちキャラは、結城晶だった。
　薫は迷わずジャッキーを選択した。
　人によってはキャラ同士の相性も考えるが、彼はそういう事はしなかった。
　ジャッキーそのものが強いことも原因だが、「１」から使いつづけていくうちに愛着のようなものが生まれ、他のキャラに乗り換える気はさらさらなかった。
「READY GO!」
　開始直後、薫はバックステップで間合いを広げた。
　相手はガードをしたままだった。
　ジャッキーの長い脚が一瞬振り上がる。
　それを見て、晶が一歩踏み込んだ。
　裡門頂肘。
　だが。
　ジャッキーが出すかと思われたヴァーティカル・フック・キックが、ガードボタンによってすばやいフェイントに切り替わった。
　唖然として固まっている晶に、すかさずジャッキーのミドルキックが入った。
　ダウンした晶目掛けて、ジャンピングニースタンプ。
　――これで出鼻はくじいた。
　薫は思った。しかし、まだ安心はできない。
　相手の反撃が始まる。
　起き上がりを下段と読んでサイドフックキックで潰すことも考えたが、体力差を考えるとまだバクチは打てなかった。
　バックステップ。
　汗が少し滲んではいたが、薫の指先はしなやかにジャッキーを操る。
　女みたいに細い指が、女みたいに習っていたピアノが、今ジャッキーを最大限勝利へと導いて行く。
　どんなに力があっても、どんなにお金を持っていても、「バーチャファイター」の前では意味がない。
　意のままにキャラを操る指先と、相手の二手三手先を読む頭だけが頼りだ。
　晶は予想通り、上段キックで起き上りを仕掛けてきた。
　しかし、間合いは明らかにが離れていた。
　――ふっ。
　薫は軽く、鼻から息を抜いた。
　クイックフォワード。
　音もなく近づいたジャッキーから容赦のない投げ――ニーストライクが決まった。
　そこから先は、ＶＴＲを見ているかのようだった。
　フェイントを巧みに交ぜて揺さぶりを掛けるジャッキーに対し、タイミングの読めない晶は裡門を連発し、そこに反撃を食らうといった調子だった。
　２本目の最後には、バクチで鉄山靠まで出してきた。
　もちろん、それを読み切れない薫ではない。
「シャッ！！」
　布を裂くような、鋭い音。
　ジャッキー・ブライアントの爪先が、鮮やかに空中へと弧を描いた。
　サマーソルトキック。
　ジャッキーの着地を待つまでもなく、薫の勝ちは決まっていた。
　けっして相手が劣っていたわけでは、ない。
　薫が乱入する前は、CPUを相手に連続技を決めまくっていた。
　ただそれはあくまで「型」のやりとりであり、人間という不確実なパラメータが闘いに絡んできた時の対処方法を学ばないうちは、対戦で勝つことはまず絶対と言っていいほどありえない。
　薫が乏しい時間と資金を注ぎ込んで得た、経験則だ。
　それを確認しながら、しかし薫は若干の空しさを味わっていた。
　勝つ、ためには。
　冒険を避け、経験に沿ってあくまで慎重に闘った方が、確率が高い。
　その度が過ぎるのが「待ち野郎」――いわゆる、「チキン」だ。
　相手を打ち倒す場で、わざわざ金を払ってまでそんな真似をする連中の気持ちが、薫にはわからなかった。
　とは言え。
　今の自分の闘いのスタイルに、疑問がないと言えば嘘だった。
　勝とうとすればするほど、がちがちに「固い」プレーに走らざるを得ない。
　嫌悪する「チキン」に近づいて行くのが、自分でもわかっていた。
　始めたころの、偶然出た大技で勝負が決まったような快感も、最近は久しく味わっていなかった。
　そして気付いたことは、「勝利」というカタルシスを得るためには、その一瞬のためには、途方もない「苦労」や「努力」が必要ということだった。
　せっかくうっとおしい現実から逃げてきたのに、そこにあったものもやはり現実のしがらみからは無縁ではなかった。
　かつては何人も勝ち抜いて行くうちに、脳内アドレナリンが沸騰するような感覚に襲われ、悪かったテストの点や口うるさい周りの人間のことなど、どうでもいい状態に入っていけたのだが、それもここ１ヵ月は御無沙汰になっている。
　ナチュラルハイの入り口までは行っても、そこでなにかしら雑念が生まれて、現実に引き戻されるような感じだ。
　大会の参加を目指したり、段位認定に挑戦したり、新たな目標を設定すればいいのかもしれないが、そこまでしてバーチャに打ち込んで、その先に何が見えるのか、今の薫にはわからなかった。
　負ければ悔しく、しかし勝っても空しい。
　――マンネリ、かな。
　そう思いながら、午後の授業が始まるぎりぎりまで薫は勝ちつづけた。
　相変わらず暑い日が続いていたが、８月はもう半分も残っていなかった。
「香坂くん、でしょ」
　ふいに、呼び止められた。
　予備校を出て、駅までの帰り道を歩いている薫に、後ろから女性の声がした。
　――……。
　無言で振り向くと、そこには一人の少女がいた。
　あんな口を聞くからには向こうはこっちを知っているらしいが、薫には全然心当たりがなかった。
　逆光のせいか、顔がはっきり見えない。
　わずかに、栗色の髪がゆるいウエーブを肩まで描いているのがわかった。
　しばらく考えて、薫は言った。
「悪いけど、誰？」
　なんて気の効かないセリフだろう。
　――「ときめき」でもやっておくんだったな。
「えーっ、あたしのこと覚えてないの……なんてね」
　そう言うと、彼女は含み笑いを始めた。
　――な、なんか、ヤバいんじゃないかこいつ。
　しかし。
　にっ、とむき出しになった彼女の八重歯を見て、薫の脳裏に何かかするものがあった。
「これなら、わかるかな？」
　小さな黒いリュックから、取り出したリムレスの眼鏡を掛けた彼女は、また小さく笑った。
　――あ。
　繋がった記憶は、今の薫の間抜けさを立証するものだった。
「相沢？」
「うん」
　そうしてまた彼女が――クラスメイトの、相沢美保が笑った。
　軽いめまいが、薫を襲った。
　彼女――相沢美保は、クラスの女子の中でも
「地味な故に浮いてしまう」
奴であり、それを甘んじて受けている(ように見える)ところが、一層彼女を地味に、人によってはうざったい印象を受けさせていた。
　だが目の前の彼女は。
　サマーセーターとカットジーンズから伸びた細い手足、きちんとケアされた指先、銀色に光るピアス、涼しげなサンダル……おかしな言葉だが、どこにでもいる、ありふれた少女の姿になっていた。
「気付かなかった？」
「あ、ああ」
「別人、みたいでしょ」
「そう、だな」
　からかわれているような気がした。
　本当は、相沢でも何でもない、まったくの別人が、自分をはめようとしているのかもしれない。
　そこまで考えたが、馬鹿馬鹿しくなってやめた。
　さっきの眼鏡姿を思い出すまでもなく、彼女は相沢美保だった。
「なんか、その……聞いて、いいかな」
「何の？」
「いや、まあ……」
　あからさまに「変身」の事を聞いていいかどうか、薫は戸惑った。
　――いろいろあるからなあ、女子って。
　わからないでもない。
　クラスにも、高校に入ってから劇的な変貌を遂げた者がいた。
　いろいろ理由は囁かれたが、それは噂であり、本人たちが吹聴することは決してなかった。
　まさか、それが彼女に訪れるとは思わなかったが。
　そんな薫の葛藤を知ってか知らずか、陽射しの中の彼女が微笑む。
　――？
　薫の半袖が引っ張られた。
　美保の八重歯が光った。
「ゲーセン、行こ！」